Watana Bear's journey of life

旅するしろくま

死ぬ気になればなんでもできる?「世界から猫が消えたなら」を読んで

46歳にもなっていまだ貪欲に夢や目標を追いかけようと、もがきあがいています。その夢や目標が、本当に自分にとっての夢や目標なのかさえわからずに。結局、すべてが中途半端。いいかげん自分に対しての信用度はどんどん下がってきています。

死ぬ気になってやってみろよ!そんなときどき言葉が頭をよぎることがありますが、本当に 死ぬ気になればなんでもできるのでしょうか。自分の死と向き合う主人公の物語を読んで真剣に考えてみました。

「あなたは明日死にます」と言われたら、どんな風に感じるでしょう。そして、自分の命のリミット1日分と引き換えに、何かを消すことを受け入れるでしょうか。「 何かを得るには何かを失わなければならない」という、寓話めいたこのストーリーの主人公に、自分を重ねながら読み進めました。

寿命を伸ばすために、毎日消すものが悪魔と名乗る男に告げられ、1日その消されるものに関する思い出や関わった人に思いをめぐらせます。いろいろな気づきを得ていく中で、翌日にその消えたものが「初めからなかったことにされている世界」を迎えるのは、どんなに虚しいことでしょうか。

明日死ぬことがわかった時点で、自分のやり遺したことなど考える余地などなく、悠長に「死ぬまでにしたい10のこと」など、リストアップしている暇もありません。例えリストアップできたとしても、カナダにホッキョクグマを見に行くなど、手配や手続きなどが必要なことは間に合うはずもありません。優先順位を極限状態にし、取捨択一を一瞬でしなければならないのが現実ではないでしょうか。。

もしくは時間を惜しんで、寝ずに何かをするでしょうか。 もしそうだとして何をするでしょう。作家やクリエイターならば、製作途中のものを完成させるためにまさに命を削るでしょう。素晴らしい作品を残し、生涯かけて作品を作り続けた人だと、後世語り継がれることはアーティスト・クリエイターにとっては本望なのかもしれません。でも私はアーティストでもクリエイターでもありません。

最終的に主人公は、引き換えに消されようとしている猫を通して、家族や自分と向き合い、命のリミットを受け入れる決意をします。そして、身辺整理をしながら、最大の課題でもあった「父親」と向き合う覚悟を決めます。

冒頭の話に戻ります。
死ぬ気になればなんでもできるのかどうかは、どんな結末を想定したとしてもきっと無理だということに気づきました。

むしろ逆で、死ぬ気になってすべてを手放すことで、何にでも向き合うための余白が生まれるのだと思います。何もかも失った後で最初に手を付けること、それが人生の中での最優先事項なのですから。

六畳一間に収められたわたしのこの小さな世界でも、あふれかえったモノがあります。死ぬ覚悟でいったんすべてのものを捨ててしまえば新しい何かが見えてくるのでしょう。たとえそう気付くことができたとしても、書棚にあふれかえった書籍や、いろいろな趣味の道具たちを捨てるには時間がかかりそうです。

もう一度チャレンジしてからでないと捨てることはできません。わたしは、どれだけ貪欲な人間なのでしょう。

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人生の折り返し地点はリセットチャンスの地点なのかもしれません。死ぬ気になって、今あるものを手放すための2018年の残り3か月にしたいです。

そしたら、2019年は何かが変わるかもしれません。

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