「どうなりたいか」よりも「どうありたいか」
ここ数日、10年前の日記を掘り起こしています。
読み返しては処分しようと定期的に思うものの、結局途中で泣き疲れてしまい、処分することがなかなかできませんでした。でも今回は違いました。不思議と、誰かの日記を読んでいる感覚に近く、過去の自分を客観視することができました。しかも、今の自分を見つめなおすことにもつながるわけで。あのころの自分の思いが、今ようやく届き始めたというカンジです。
自分が描いた未来にどうにかして近付こうと頑張っていたあの頃だけれど、どうにもこうにも疲れてしまって壊れてしまいました。「人生の夏休み」と言えるようなステキな休息はできませんでしたが、その後数年かけてマイペースにゆるく生きるスキルを身に着けました。
いや、違うかな。身に着けたつもり、ストレスフリーに生きているつもりになっていただけです。
自分の置かれている状況を俯瞰でみることができて、思考や認知のゆがみもひずみもなく、どうにもできないことはあきらめ、上手に流す術も手に入れた。
そのはずなのに毎年10月が過ぎ、1年の終わりが見えてくると、ふっと残尿感に近いモヤっと感が溜まっていたわけで。実際、目を見張るような成長をしているわけでもなく、これといった結果が出せているわけでもないので当然といえば当然のこと。
でも、なんだかおかしいなーと思っていたところ、先日気づいてしまったんです。頑張らないことを、ひたすら頑張っているだけだったということに。
もう、ストイック通り越してワタシはMか?マゾか?マゾヒズムか!形を変えて自分をいじめ続けているだけだったわけです。
10年前は「家事も育児も仕事もやらなければならない、家庭を円満にしなければならない」と自分を追い込んで空回りしていたのですが、今は「ゆるく生きることで、なりたい自分にならなければならない」そんな風に自分を追い込んでるだけだった、ということです。
なんでいつも、突っ走って空回りして息切れを起こすのか。それは、目標とか理想とか夢とか希望とか「なりたい自分」を掲げるときに、いつも自分を無視して掲げていたから。
昔も今も「本来の自分」を無視して「ねばならない」というムチを打っていただけ。
不器用で、ひとつのことしかできなくて、オタク気質でマニアック。その割に飽きっぽいから、深くどこまでも追究しきれず中途半端な知識どまり。あこがれの人や目標の人を見つけても、ふっと理想と違う一面を見つけたとたんに「あ、違った」となって、もう見向きもしなくなるわけで。
最後はもう執着だけで、喜びも楽しみも感じられないままモチベーションも続かない。 最悪な、負の自転車操業。突っ走っては疲れて止まって乗り捨てて、また新しい自転車買って、突っ走って疲れて止まって乗り捨てて・・・。
何がしたい?じゃなくて、何をしたくない? どうなりたい?じゃなくて、どうなりたくない? どんな風に生きたい?じゃなくて、どんな風に生きたくない?
ねばならないを取っ払った先にあるものが、「ありのままの自分」になるのならば。
私は、頑張りたくない!
コツコツと、毎日を当たり前のように死ぬまでこなしていく、そういう人間でありたい。
雨にも勝てず
雨にも勝てず
風にも勝てず
雪にも夏の暑さにも負けっぱなし
「バカは風邪をひかない」から丈夫なカラダを持ち
人間の三大欲求はこよなく愛し
社会に怒りを覚えても決して感情的にはならず
いつも静かにほくそ笑んでいる
みんなに「ねこぜまん」と呼ばれ
褒められもせず
ディスられもせず
そういうブロガーに
ワタシはなりたい