Watana Bear's journey of life

旅するしろくま

蜷川実花監督「人間失格」を見たら、生きることが簡単に思えてきました。

 ブログを毎日書きますよ宣言してから1ヶ月が過ぎました。変化したことは、朝時間の流れが固定してきたこと。目覚め・起床時間は微妙にまちまちだけれど、起きてからの行動はほぼ変わりません。

 布団から抜け出したら、トイレに向かう。トイレを済ませたら、玄関を解放して空を見上げる。健康的にいうと日光浴。ポエム風にいうならば、空を見上げて深呼吸。スカしていうなら、空を見上げて瞑想。定点の空写真を撮って、お湯を沸かしながらTwitterに呟く。朝空写真とともに。

 その後、珈琲を飲みながらブログ記事を書くのですが、この日を境に「毎日更新」が途絶えてしまいました。

 ブログを書く時間帯を変えようと思っていたところに、会社でネガティブな発表を聞いきてしまったからです。不安が脳内を占領している時に、ましてや夜に記事を書こうとすると、記事がネガティブになってしまいます。掃き溜め、肥溜、痰壷、尿瓶。そんなブログにはしたくないと思いつつ、時にはそんな感じの記事もあっていいじゃないとようやく思えるようになりました。4日もあけてしまいましたけど。

 ネガティブだっていいではないか。人間だもの。表裏もあれば、陰陽もあってこそ人間だもの。人間失格だろうと、生かされているだけだろうと、それもまた人生だものと思うのです。

 

 そう思えるようになったのは、映画「人間失格」を見たからです。小栗さんの方のヤツです。

人間失格 太宰治と3人の女たち

人間失格 太宰治と3人の女たち

  • 発売日: 2020/04/02
  • メディア: Prime Video
 

  わたしは、五所川原の実家に押し掛けたり、三鷹のお墓に押し掛けたりするほど、太宰さんが大好きです。どこまでがフィクションで、どこまでが自伝なのかわからないけれど、特に人間失格は好きなのです。ほら、根っこがネガティブだから。立てないと思い込んでるクララだから。暗い、重いと言われることが多く、自分の中にネガティブ要素がぎっしりつまってるんだと認めざるを得ないのです。

 でも、この作品の「人間失格」は、今まで抱いていた太宰さんとはちょっと違って見えました。心中・不倫といったゲスいことが題材ではあるですが、なぜか生きることに前向きになってしまうという、不思議な作品だったのです。

 蜷川実花監督にかかれば、人間失格もこんな風に力強い女性の人生の物語に変わるものなのかと、見た後スッキリしました。同時に、自分の中にも女性性があったんだなということにも気づかされました。

 これからの時代は女性の時代という人もいます。男女共同参画に違和感を覚えた20年前、ジェンダーフリーな時代になりつつも、男性の時代、女性の時代と言っている時点で、ジェンダーフリーでも平等でもないじゃないじゃないと思っていました。それがもう、そんなことにこだわる方が無意味に感じ、性別関係なく、誰もが自由に、今を思いっきり生きていくのがいいんじゃない?と思えてきたのです。

 この作品は、生き方・視点を変える作品です。不倫を正当化するという意味ではなく。登場人物、誰もが人生の沼にハマって苦しんでいるように見えたとしても、結局は自分で思い描いたように生きているってことを、それぞれのラストの表情でわかる訳で。

 わたしもどんな状況になったとしても、思ったようにしか生きられないのだから、生きたいように思っていこうと考えれるようになりました。

 

 ブログについても「エンディングノートのようなもの」なんて重たく考えず、朝の脳内排出ブログでいいじゃないかと思えるようになってきています。

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