Watana Bear's journey of life

旅するしろくま

母の日と母の自由 2021

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 息子が私のパンツを爪の先で汚いものをつまみ持つように、しかしながら▼を大胆に広げつつ私の部屋に届けに来た。仕分けた洗濯物の中に私のパンツが紛れ込んでいたのだ。

  成人を過ぎた息子の洗濯物を、甲斐甲斐しく畳んで届けることはしない。洗濯物を干す際に前日干したものが残っていると、外して部屋に届ける程度である。たたみ方も、息子なりにこだわりがあるようなので、勝手に畳んでくれと言わんばかりにベッドの上にどーんと置くだけだ。

 息子も私も、黒い下着ばかりである。靴下も黒。私はスクールソックスタイプ、息子はスニーカーソックス。形がはっきり分かれるので仕分けはしやすい。

 一方パンツはというと、息子はボクサータイプで、私は綿のスタンダードなコンビニショーツである。横に並べて比較すると当然見分けはつくのだが、ピンチハンガーに縦に並んでいると、うっかり勢い余って仕分けをミスる。

 「あら、失礼」と機械的に言いながら、たたんでクローゼットにしまう。黒一色の下着用引き出しを眺めながら、この状態になった経緯を思い出す。

 昔は曜日ごとに色を変えて、7セットそろえていた。その後、洗い替えと予備があれば十分だとセット数を半分に減らし、気に入った素材とシンプルなデザインを探し求めて今に至った。

 黒はエネルギーを吸収するため、体が老けると聞いたことがあり、ならば巣鴨のお祖母ちゃんのように赤にしようと思ったこともあった。けれど、赤い下着はセクシーシリーズが主で、健康的な素材のものは皆無に等しかった。

 40代の若輩者が、巣鴨に買い物に出向くには敷居が高かった。還暦を過ぎていないものが巣鴨に行くことは、二十歳になったばかりの若者が花街に行くことと同じようなものと、どこかしら偏った感覚があったのだ。父と母を連れてならいけるのだろうか?

 そうだ、父と母に巣鴨の赤パンを贈ろう。

 数日前、実家の母に母の日のリクエストを問い合わせたところ「生活大変でしょ?気持ちだけで十分よ」と返ってきた。結局何がいいだろうと悩み、母の日に間に合ったためしがない。この一連の流れも、毎年恒例になりつつある。 

 

 毎年恒例と言えば、我が息子との母の日のやり取りも恒例である。今年も楽しんでおこうと思い、息子に声をかけた。

「今日は母の日ですよ」

 洗面所で髪型を整えている息子が、含み笑いを込めながら答える。強調された重低音の「へぇ~」は、軽くあしらわれているのではなく「はいはい、毎年恒例のあれですね、わかってますよ」といった意味が込められていることが、含み笑いも手伝ってわかる。

 いまだかつて、息子から母の日に何かされたことはない。以前そのことについて、確認したことがある。息子の言い分としては、母の日だからといって感謝をするのはおかしい、母の日だけ感謝すればいいみたいな風潮がおかしいということだ。

 同世代の男の子どもを持つ母としては、友好的な関係を保ち幸せな方であることは自覚している。だが、もうすこし世の「販売促進戦略」に乗っかてくれてもいいのではないか?と、マヌケな女心のようなことを感じないわけではない。

 今年は変化球を投げてみた。

「しかも今日は父ちゃんの誕生日ですよ」

 重ねる重低音の「へぇ~」に続けて、意外な返答が返ってきた。

「でもあれよ、オレ、父ちゃんから誕生日になんももらったことないから」

 

「キミも意外と『もらったから返す』タイプなのね?」

「んー、そうね、友達とかなら基本そうなるじゃない?」

「なんかやーね、その義務感的な人間関係。気持ち的なアレはないのかね?」

「んじゃー、オレの気持ちとしてじゃがりこ1個でもいいわけ?」

「いいよ~普通にうれしいと思うよ。キミの親に対する気持ちはじゃがりこ1個ってことで」

「うわー、めんどくせーなぁ(笑)」

 この「めんどくせー」は、じゃがりこを贈ることがメンドクサイのではなく、気持ちを物で量ろうとした発言に対してであることは、普段の彼の性格とニュアンスからわかる。

「まぁまぁ、毎年恒例の”母の日のやりとり儀式”を楽しみに来ただけじゃん。友達いないし、都外どこにも行けないし、都外どころか都内も不自由だし、緊急事態宣言だし、つまんないなーと思ってさ」

「なんで”当日”じゃなきゃだめなわけ?飯おごるにしろ今日は撮影で無理だから」

「おっ?!じゃ~夕飯はいらないんだね?!」

 

 母の日、夕飯づくりから解放されだだけで心が躍る。日頃、大したものは作っていないが「今晩何にしよう」と、頭を悩ませることから解放されただけで自由になれた気がするのである。

 夫も私も息子もそれぞれ自立して、それぞれの生活を楽しんでいる(と思う)。卒婚、卒育万歳!私は自由である。ただ、その自由と引き換えに手に入れたものは、孤独であることは間違いない。

 自由とは、孤独を楽しむことである。

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