園長先生助けてと叫んだあの頃は、発達障害なんても思いもしなかったよね。
先日、幼少期に過ごした場所を訪問しました。
子どもの頃の思い出がたくさんよみがえってきたので、あの頃の自分の気持ち、母の気持ちを振り返ってみようと思います。
幼いころの話で必ず話題にでるのが「園長先生助けて!事件」です。
当時、おしいれのぼうけん (絵本・ぼくたちこどもだ) が大ヒットするほどです。世のお母さんたちは、お仕置きとして子供を押し入れやどこかに入れることが多かったのでしょう。
狭い社宅マンションだった我が家の押し入れは、おふとんやらなにやらで、ぎゅうぎゅうだったと思われ、母の場合は、ベランダに閉じ込めたことがありました。
2~3歳のわたしにしてみれば、なんでベランダに閉じ込められているのか理解はできません。窓の向こうにいる母は、入れてくれそうもなく、ベランダからまっすぐ下を見ると、時々遊びにいっていた幼稚園がみえます。どうすることもできなかったわたしは、大好きな園長先生に向かって助けを求めたのです。
「えーんちょーせーんせー、たーすーけーてー」
その声が園長先生に届いたのかはわかりません。大きな声で叫び、手を振る私を見つけた園の関係者が園長先生に報告してくれたのかもしれません。
その後の記憶が曖昧なのですが、どのようにして私が室内に戻ることができたのか覚えていません。ただ、玄関で謝る母の後ろ姿と、駆けつけてくれた園長先生と女性の先生と二人が、玄関に立っていた光景だけが記憶に残っています。
その後、この幼稚園に通うことになるのですが、入園願書を届けに行ったときは、随分恥ずかしい思いをしたに違いありません。しかも私は、入園試験(面談)の際に、単身赴任で不在がちだった父の名前を言えないという失態までおかし、母に恥の上塗りをしてしまうのでした。
大人になってから、なぜベランダに閉じ込めたのかを、母に理由を聞いてみました。もちろん、なにかのお仕置きだったことは、さすがに理解はできます。なにをしてお仕置きを食らうことになったのかを、知りたかったのです。
結局母も、詳細までしっかりと覚えてはいなかったのですが、とにかくわたしは家に帰らない子だったそうで、家に入れるのが毎度大変だったとのこと。一緒に遊んでいた子どもたちがおうちに帰っても、一人残ってなにかしら遊んでいることに手を焼いていたので、そのことではないかと言います。
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私は、興味を示したものに対して、油断をすると過集中になってしまうことがあります。おそらく、幼いころからその傾向は顕著に現れていたのだと思います。遊んでいるうちに好奇心が爆発すると、母がおうちに帰るよと言っても聞こえません。返事をして生返事をしたとしても、届いてはいません。帰らなければならないことを理解するよりもまず、目の前のことに夢中なのです。
親にとってみれば、言うことを聞かない手のかかる子です。子どもに対して苦痛を感じてしまったり、親子関係に何か問題があるから、家に帰りたくないのだろうかなど、自分に対してネガティブな感情を抱いてしまったりと、なにかしら原因を探っては、いうことを聞いてくれるようにしようとするでしょう。
でも、2~3歳の子どもにそこまで複雑な感情を抱くほどの経験値や思考力はありません。理詰めで説得しようとしても無理です。単に今していることから気持ちの切り替えができないだけなのです。ましてや発達障害の傾向がある子供にとっては、感情は「快・不快」の二択です。家に帰ることよりも、目の前の遊びの方が「快」なのであって、それと比較すると、帰宅をすることが不快に感じるというだけのことなのです。
ならば、目の前の遊びよりも帰宅することが「快」と感じられるような、上手な誘いをすればよいということになるのですが、初めての子育て、ましてやワンオペ状態での精神的疲労を抱えた状態では、余裕はないに等しかったと思われ。その後何十年もたってから発覚した発達障害なので、結果論にしかすぎません。
今更ごめんねなんて言えないけど。ましてや、わかってほしかったなんても、言える立場じゃないわけで。
こころを育てる子育てだけではなく、脳の特性を生かした子育てを重要視してくれる先生と出会えていたら、お互い少しは救われたのかもしれませんね、としか言えないのです。
必死に育ててくれた母に感謝を込めて。そして、同じように苦労している方にとって、少しでもヒントになればと思います。