Watana Bear's journey of life

旅するしろくま

シロクマが教えてくれたちょっと哲学的なこと

 ご無沙汰してしまいました。

 お腹イタイイタイ事件から生活リズムは一変してしまい、気持ちはなんだかまったりゆるゆるモードでした。しかもその後、誕生日ウィークというハッピーな日々を過ごしたために、ココロもカラダもさらにゆるゆる。

※全額「息子の相方」のオゴリでした。ゴチ( -(エ)-人)

 

 わたしは、しあわせを感じるとシロクマをみたくなるのが癖でして、お出かけモードにはなれないご時世だったので、YouTubeの動画でシロクマを見まくっていました。

 シロクマ動画から派生して、北極関係の動画→北極・南極の極地→地球→宇宙→地球誕生→生命誕生→進化論VS創世論(おまけの宇宙人説)→宗教学・哲学→量子論量子力学→光学→色彩学と最終的に、結局「色」にたどり着いたわけで。いったん離れてしまった色の勉強。そこに戻るってやっぱりわたしは色が好きなんだなと思い知らされたわけで。

 昔、息子が芸人になった時「笑い」は人間だけが持っている特性だから、笑うことを意識して生きようと思ったのですが、色の世界もまた人間だけが持っている世界なんですよね(色は人間の目:網膜の特性で認識できる)。

 しかも、光がなければ色を認識できません。その色や実態は光を通して見ているだけで、当たる光によって見え方も変わってしまうわけで真の実態じゃないかもしれないわけで。代表例が蜃気楼。光の屈折でそこにないものが見えている。ならば逆もありうる話で、光の屈折で見えないこともある。つまり、光を通して見ているもの、他人の姿や鏡に映っている自分の姿もまた、当たる光が変われば見え方も変わってくるわけで。

 じゃー光って何よ?となるわけですが、光もまた闇がなければ存在(認識)し得ないわけで。光と闇。色に置き換えると白と黒。私が大嫌いだった黒、闇。私が大好きな白、光は、大嫌いな黒、闇がなければ存在し得ないと気づいた時に、大嫌いだった黒色を、嫌いじゃなくなってしまっていたわけです。

 なんらかの認知の歪みで嫌悪が生まれていたならば、その歪みを変えるための知識や情報を取り入れることで、見方や認識が変わるもんなんだなと、2週間以上のまったり期間で気づきました。

 これって、人や行為に対する嫌悪も一緒で、目に見えていることは自分という光(バイヤス)を通して見ているだけのことであって、当てる光を変えたり、当てる角度を変えるだけで、好きにならなくても嫌悪がなくなることがあるんだなということにつながるわけで。

 「人類誕生宇宙人説」の動画を見ていた時に思ったんです。SFとかファンタジーとかは好きなくせに、オカルトとかスピリチュアルになると一気に嫌悪感が生じるのはなんでだろう?と。肯定を証明することができないことは、否定も証明できないわけで、そんな説があってもおかしくないよねって頭ではわかるんだけど、なんでこんなに嫌悪感を抱くんだろうと思ったら、ひょっこり気づきました。オカルトとかスピリチュアルを盲信している人の熱量と世界感が苦手なんだと。

 宗教や哲学もそうです。教えを学ぶことは人生を豊かにしてくれるけれど、盲信してしまっては何か違いませんか?となるわけで。特に一神教についてですが、同じ人を神と崇めておきながら宗派が違うのなんて、人間が都合よく解釈した結果で出来た派閥にすぎないだろ?と思っちゃうわけで。誰が神だとか争いを起こしてまでも主張することですか?と思うわけで。八百万の神の文化圏に住むわたしにしてみれば、そんなの「アイドルグループの中で誰が神?!」と言い争ってるアイドルオタクの喧嘩となんら変わりがないわけで。

 あーそうそう、自己啓発大好人間が苦手な理由も同じです。誰を師事してるとか誰がメンターだとか。わかりやすく言えば誰のサロンに入ってるだとか。師事してる人のことを神がかった扱いして、その人以外ありえないと思ってるとこが苦手。そんなの「彼が運命の人!この人以外考えられない!」って言ってる恋愛モンスターと同レベルなわけで。どっちも、ふっと我に返ったときに気づくのよ。あれ?わたしなんで今までこの人が全てと思っていたんだろうって。

 おっと、イケねぇ、話がそれました。

 何が言いたかったかと言いますと、お腹イタイイタイ事件の後でしばらくまったりしてシロクマ動画を見まくっていたら、苦手なこと・人をいくつか克服しちゃいましたよってことなのでした。シロクマって神だわやっぱり(笑。

 

 

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