あれから1年、これから1年。先の見えない不安というよりも、自分がどうしたいのかがわからなくなった不安の方が大きくなったけど・・・
非常にご無沙汰してしまいました。
何から伝えればいいのかわからないまま時は流れて…。
この現象を、私はある歌のフレーズに置き換えて「小田ってる」と呼び始めました。
浮かんでは消えてゆく、ありふれた言葉だけだったのよ。マジで。
なんかもう、心が動かなくなってしまいました。
客観的に見れば「病んでいる」と思われるかもしれませんが、ちょっと違うんですよね。病んだことがあるので、わかります。病むということは、心のどこかでまだ何かに期待をしているから病むのです。期待感がなくなると、人は「無」になるものなのだなとここ最近はつくづく思います。
今年のテーマは掲げていませんでしたが「気ままに暮らす」でした。
スケジュール帳やノートに何かを計画すると、当然、達成することと達成できないことに分類されます。人はどうしてもネガティブな視点をどこかに持ってしまい、この「達成できないこと」へフォーカスしてしまいます。
もちろんポジティブで蓋をすることはできますが、それは見えなくなるだけで消えることはなく、ちょっとした何かの拍子に臭いがしたり、音がしたりするものなのです。そうやって蓄積されたネガティブが自己肯定感を下げ、いつのまにか「何を計画しても無駄」と思ってしまうようになるのです。
なので、今年のテーマは気ままでした。繰り返しになっていますが、過去形です。
なぜ過去形なのかと言うと、きっかけは散歩です。
実は、春になってまた朝散歩を始めました。去年も朝散歩にはまりましたが、前回はどちらかというと痩せようとか、歩きながら自分の気持ちを整理するため独り言を録音しながらにしようとか、ちょっとポジティブな趣旨でした。
今年の朝散歩は違います。気が向くままが趣旨です。朝目覚めたら気が向いたら布団から起きだし、気が向いた時間に家を出て、気が向いた方向に足を向ける。
気ままに歩くことで、新たな自分を発見することができました。
早朝に開店しているパン屋に出くわし、思いのほか安かったので購入。帰宅後に食すると、実は朝はパンとコーヒーを食すのが好きだということに気づく。
そうなると、地図アプリで徒歩圏内に早朝から開いているパン屋を探し、片っ端から出向き始める。自分に合うパン屋を探したくなるわけです。
また、近所の遊歩道が暗渠であることを知り、眠っていた探求心と探検欲が刺激されてしまいました。
なぜこの水路は蓋をされることになったのかが気になると、もういてもたってもいられず、暗渠の端まであるいてしまう。この暗渠が実は川だったことを知り、東京を流れる川と失った川(水路)について調べるために、古地図や歴史を求めて図書館に出向く。そして、近所に流れる3本の水路をたどる計画をたててしまったわけです。
気ままをテーマにしていたはずが、新しい興味に出会うとすぐに調べては計画を立てる。「気まま」から逸脱してしまうことへの罪悪感を抱えながらも、だってしょうがないじゃないこれが私なんだからと、あきらめの境地に陥りながら壮大な計画を立ててしまいました。
なのになぜ?・・・ご存じの通り、緊急事態宣言ですよ。
何か計画を立てると、かならず障害にぶち当たる。ブログを2本立てにし、収益をえようとすると仕事に追われる。川沿いを歩く計画を立てると、緊急事態宣言が出る。しかも今回は灯火管制付き。
気ままにソロ活を楽しもうなんて思ったところで、なにもかもが、そぎ落とされる要因になり心がすり減る感じです。「気まま」なんて、実は一番ハードルの高い目標なのではないかとさえ思えてしまう。
ちょうど1年前の記事です。
STAY HOMEなんて、自粛をこじゃれた表現で士気をあげようとしていた小池さんも、とうとう「東京に来ないで」「灯りを消して」ですよ。
計画をたてようが、気ままに過ごそうが、何もかもが止まってしまう時代に、この先自分がどうしたいのかなんて考えるだけ無駄、と思ってしまっていることに不安を覚え始めてしまったわけですよ。
あぁ、これがコロナ疲れってやつですか?
そう思いながらも、ブログ記事を書いてしまい、心のどこかに何かの灯を残そうとする。人間ってつくづく貪欲だなと思う今日この頃。
もう、先のことは考えないようにしよう。考えないことに不安になったとしても、心の灯だけは消さないようにしよう。どんなに百合子が「灯りを消せ」と言ったって、心に種火だけは温存しておく。そんなレベルの生活でいいではないか。
じゃっ!